先日、多摩美術大学 情報デザイン学科 メディア芸術コース 卒業制作展「メ!」にて、座談会のゲストとして呼んでいただいた。
登壇者は、ビデオアーティストの佐藤瞭太朗さん、アーティスト/アニメーターの米澤柊さん、メディアアーティストのAkihiko Taniguchiさん。
「キャラクター」が大枠のテーマで、サイコロを転がしてそこに記載されたテーマについて話す小堺一機の『ライオンのごきげんよう』(フジ系列 1991~2016)形式の座談会だった。
佐藤さん、米澤さん、Taniguchiさんそれぞれのキャラクターや作品の向き合い方がとても興味深くてあっというまに終わってしまう。ものすごい情報量でとても楽しかった。
なにより、卒業生のみなさんの作品が大規模なのと、ほんとに独自の視点から作品化されているクオリティの高いものばかりでとても見応えがあった。凄すぎ!
ここでは、テーマである「キャラクター」が提示されたあとに、何を話せばいいんだろう!?テーマに関して色々考えていたことを残しておきたい。
物語論的なキャラクター設計の話ではありません(そんなのわかんない!)。
キャラクター:混沌とした世界と疑似的に対話するためのインターフェース
まず原初の「キャラクター」として思い浮かべたのが、妖怪とか神。それらの超人間的存在がどうやって生まれるのかな?と考えてみる。
長野でちいさな田んぼをやったり畑をやったりした感覚として、コントロールできない環境への対処がめんどくさい。夏の暑さで水を調整したり、台風で稲が一部倒れてしまったり、鹿に米を食べられたりとかそういう予測不能でコントロール不能がことがめちゃくちゃ起こる。困る。
おそらく、狩猟もそうだろう。経験値からある程度予測はできても、全てはコントロールできないしできるものでもない。それらは、生きのびることと直結していく。
予測不能で理解不能な自然相手に対処法もなにもないというのは耐えられない。
どうすればいいか?名前と身体を与えて、対話可能っぽくしよう!
語りを持たないモノに語りをもたせること。
語りは物語をもたらし、因果を発生させるので問題への対処が可能になる。対処法があれば、未来を予測可能かつコントール可能にできる。
これが「キャラクター」の発生じゃないだろうか??
なんてことを考えた。
対話可能っぽいと書いたのは、その語りも人間を中心とした人間による想像にすぎないという部分であるが
人間は人間から抜け出すことができないので、人間以外のものへと思いを馳せること自体は重要であることには変わりない。
仏教においては、仏像として象られる存在は神様ではない。それらは、仏教の教えを象徴化した、いわば圧縮ファイルみたいなものだ。
コテンラジオの仏教掘り下げ回でも、仏像についてはここを目指していこうというモデルケースという話をされていたと思う。
仏教では、キャラクターがめちゃくちゃ優秀な情報圧縮装置として機能している。文字が読めなくても、すべての仏典が頭にはいってなくても、それらの情報がいつでも解凍できるようになっている。誰もが、その解凍をしやすいように感覚的にデザインされている。
キャラクターとは語りをもたないものに語りをもたせ、人間が扱えないような領域をなんとか対話可能のサイズへと変換するためのインターフェイスだ。
混沌した世界を、混沌としたまま受け取れない人間が生き抜くためのとっても賢いツール。そして同時に超高効率の情報圧縮装置でもある。
座談会で登壇した作家たちは、それぞれが独自の視点で世界を捉えていた。その「自分にしか見えない視点」をキャラクターとして型取り、語りをもたらす作業をしていたように思う。千松信也の『けもの道の歩き方』には、狩猟を通じて感覚が研ぎ澄まされると、森の枝一本の角度の違いで獲物の存在を感知できるという話がある。人間の認知は、それほどまでに鋭くなり得るのだ。私たちは常に何かを見逃しながら生きている。しかし、誰かがそれを見つけ、その情報が言語に収まりきらないほど複雑なとき、キャラクターという形を通して「語り」を与えることができる。それは、もちろん数ある手段のなかの一つだ。で、そういうのを見つけると嬉しい。慣れきった世界の生き方に新しい視点が生まれるからかな?